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今回は、顕正新聞 R1.5.15・25合併号の「宗門末寺糾弾」記事を題材として、日興上人が門弟に対して定め置かれた『日興遺誡置文』と『日興跡条々事』の御遺誡の内、前者の『日興遺誡置文』を以って顕正会の根本的な誤りを破折していきたいと思います。

宗教法人顕正会
日蓮大聖人御金言に背く

根本的な誤り 序章

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(顕正新聞 R1.5.15・25合併号)

H支隊長は、この登壇で浅井昭衛の言葉として次のように紹介しています。
「御遺命に背く悪侶を許してはいけない。……駆除しなくてはいけない」と。

仏教では、人間界に生を受けた者は、等しく仏性があるので、その昔、不軽菩薩は礼拝行を欠かさなかったと言われていますが、その仏性のある衆生に対して、浅井昭衛は「駆除しなくてはいけない」と発言しているのです。

大聖人様は『崇峻天皇御書』に、
「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という。」
(御書1174頁)
と御金言ですが、顕正会の皆さんがこの教えに逆行していることに一刻も早く気が付いて欲しいものです。

日興上人御遺誡に背く

根本的な誤り その1

日興上人は『日興遺誡置文』に、
「一、若輩(じゃくはい)たりと雖も高位の檀那より末座に居(お)くべからざる事。」
(御書1885頁)
と御遺誡されていることを、顕正会の皆さんはご存知でしょうか?

<参考>
【若輩・弱輩】①としのわかい人。年少者。②未熟者。あおにさい。
【高位】高いくらい。「-高官」
【末座】しも座。すえの座。末席。⇔首座。
【首座】①主席。最上位の席。⇔末座。②かみざにつく資格の人
(新選国語辞典 第六版 小学館)

この1箇条の御文は、
「年少者の所化さんだとしても、高位の檀那(信徒)より末座に居(お)いてはならない」と拝せられます。

これを文字通りの表面的な意味で捉えて、
「御僧侶を上座に、信徒を下座にすれば良い」と勘違いする人がいるかも知れないので、必ずしもそういうことではありません。

本宗、僧俗和合した師弟相対の信心の上から、
  • 御僧侶を敬(うやま)う
  • 指導教師より御指導を賜(たまわ)る
  • 指導教師の御指導に従う
ということが大事ではないかと思います。

これらの趣意を含めたときには、
「年少者の所化さんだとしても、高位の檀那(信徒)より蔑(ないがし)ろにしてはならない」と拝せられます。

一方、顕正会ではどうでしょう…
昨今顕正会では、幹部数名(多い時には数10名)が日蓮正宗寺院を訪れる等して、事実無根の捏造報道を毎月のように展開し、御僧侶を誹謗中傷している様子が顕正新聞に明らかです。
また、血脈付法の御法主上人に対して、門外漢の輩があろうことか、信仰の根幹である御相承について云々する等、言語道断であり、本末転倒の極みです。

日興上人は、御入滅の前に、このような師弟相対の信心に外れたことをしてはならない旨を御遺誡され、この26箇条の末文に、
「右の条目大略此(か)の如し、万年救護の為に二十六箇条を置く。後代の学侶、敢(あ)えて疑惑を生ずること勿(なか)れ。此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず」
(御書1885頁)
と仰せられているのです。

御本仏宗祖日蓮大聖人は『日蓮一期弘法付嘱書』に、
「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。
  弘安五年壬午九月 日     日 蓮 花押
     血脈の次第 日蓮日興」
(新編1675頁)
と日興上人を本門弘通の大導師として血脈相承されました。

顕正会の皆さんは、久遠元初の僧宝であらせられる法水写瓶、唯授一人血脈相承の日興上人と、宗門より信徒除名処分に付された浅井昭衛の言うことと、どちらを取捨選択するのでしょうか?

また、言い換えれば、ご自分の成仏を眼前にしたとき、仏祖三宝尊と、一在家に過ぎない凡夫のどちらを取捨選択しますか?

更に、臨終正念のとき、御歴代上人が大御本尊の御内証を御書写あそばされた日蓮正宗の正統な御本尊と、出所不明の顕正会本尊のどちらを信仰の対境として、ご自分の成仏を願うのですか?

ここでもう一度、かつての血脈相承についての異流義団体の発言を振り返っておきます。

元御僧侶(翌年、正信会結成)
「最近、某週刊誌に某檀徒の発言といたしまして、血脈相承の問題、また恐れ多くも御法主上人猊下に及び奉ることがらを、得意になって云々している記事が目につきました。私共指導教師といたしまして、顔から火が出るほど恥ずかしく、また、大変情けない想いをいたしました。これは、もはや檀徒でもなければ、信徒でもありません。(中略)御戒壇様、大聖人の人法一箇の御法体を血脈相承遊ばす御法主、代々の上人を悉く大聖人と拝し奉り、その御内証・御法体を御書写遊ばされたる御本尊に南無し奉るのでございます」
(昭和54年8月25日・第3回全国檀徒総会記要)

創価学会
「日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。しかもその大御本尊は、日蓮正宗に厳然とおわします。そして宗祖大聖人より第二祖日興上人、第三祖日目上人と代々の御法主上人猊下が法水写瓶・血脈相承され、現在は、第六十七世日顕上人猊下に、いっさい受け継がれているのである」
(池田大作著書 広布と人生を語る 1-131頁)

顕正会
「日蓮大聖人の仏法を、正しく今日に伝えている唯一の正系門家は、申すまでもなく日蓮正宗総本山・富士大石寺である。そのゆえは『本門戒壇の大御本尊』と唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈(けちみゃく)ましますゆえである。(中略)かくて日道上人・日行上人・日時上人・日阿上人・日影上人・日有上人と、『本門戒壇の大御本尊』を付嘱の法体として代を重ねること六十七、清浄の法水はいささかも断絶することなく今日に至っている。これが正系門家・富士大石寺の伝統である。」
(冨士274号 昭和61年11月号1頁)

上記異流義団体共に、本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承が総本山第六十七世御法主日顕上人猊下にあらせられることを言明していることからも、これ以上の言葉を差し挟む必要はないものと思います。

根本的な誤り その2

同じく、日興上人の『日興遺誡置文』に、
「一、時の貫主(かんず)たりと雖も仏法に相違して己義を構(かま)へば之を用ふべからざる事。」
(御書1885頁)
と御遺誡されています。

皆さんも良くご存知の創価学会・顕正会(『最後に申すべき事』16頁)が主張している、この1箇条は、これまで前述したように、日興上人が門弟に対して「後代の学侶、敢(あ)えて疑惑を生ずること勿(なか)れ」と御遺誡を定め置かれていることからも、この門弟に対して師弟相対の筋目を違えた僧俗が己義を構えれば、
「一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫主之を摧(くじ)くべき事。」
(御書1885頁)
となる故に、元妙信講は講中解散処分、正信会は擯斥処分、創価学会は破門処分に付され、大聖人の門外漢となったことを知るべきです。

<参考>
  • 正信会は、昭和56年1月21日、日顕上人御登座1年半を経過した後、血脈相承を否定
  • 創価学会は、平成3年初頭、日顕上人御登座12年を経過した後、血脈相承を否定
  • 顕正会は、平成11年4月12日、日顕上人御登座20年を経過した後、血脈相承を否定

顕正会の皆さんに於いては、本門弘通の大導師である日興上人の御遺誡を、今一度心肝に染められ、浅井昭衛率いる顕正会に煽動(せんどう)されることなく、顕正会を俯瞰で検証されますよう、また、ニセ本尊疑義と数多の自己矛盾に対する一助になることを願って、ここにその誤りを留め置きます。

真実は客観的事実に基づく検証から

私個人の経験を踏まえて、これまで実際にお会いした対論の場で、皆さんにお話していることがあります。
それは、一方の主張のみを鵜呑みにするのではなく、双方の視点に立って飽くまでも客観的事実に基づいて検証していくことが大事ではないかということです。
例えば、各教団の中には、『人間革命』という小説(フィクション)だったり、『日蓮大聖人の仏法』という書籍等がありますが、それらの中には作者の主観が色濃く反映された物もあり、「信じること」によって、フィクションや作者の主観に気付かず、妄信(もうしん)してしまいがちです。
その意味に於いて、今回取り上げた記事内容に関しては、SOPH...さんが興味深い記事を書いているので、こちらもご覧いただければと思います。
72. 真偽不明の登壇「法悦院」様での御話 (顕正新聞 令和元年5月15・25日合併号)

新宗教から一日も早く脱会し、末法に広宣流布すべき御本仏宗祖日蓮大聖人の出世の本懐である本門戒壇の大御本尊に御目通りさせていただきましょう!
創価学会・顕正会・正信会の皆さん、ご質問・ご相談等お待ちしております。